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すごい旅の話

2020-07-21

観光地としてでない、暮らしの場としての「高岡市」の魅力とは −− 高岡ツアーリポート③

富山県では、県中央部にある呉羽(くれは)丘陵を境に、東部を「呉東(ごとう)」、西部を「呉西(ごせい)」と呼びます。呉東の中心が富山市なのに対し、呉西の中核は、歴史とものづくりの薫りに包まれる人口約17万人の都市、高岡市です。

今回、この高岡市内で、観光ではなく移住・定住を切り口にしたツアーと意見交換会が開催されました。定番の観光名所巡りではなく、高岡での暮らしに思いを馳せつつ地域を回った2日間。短い間にも垣間見えた「地域の人にとっては当たり前だけど外の人が知らない高岡」を、4回に分けて詳報します。

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2日目、意見交換会の翌朝は午前7時前に起きた。交換会が終わった後、残った人たちで「もろや」の居間で飲んでいた時、野原さんが「お気に入りの道を通って近くの寺や神社に連れていきたい」と言ってくれた。それが予想外の早起きをした理由だった。その心意気が嬉しかったし、朝のまちというのも、めったに見ることができないこの土地の表情だと思うと、こんな貴重な機会を逃す手はなかった。ここは、戸出の中でも光明寺というエリアだそうだ。早朝の戸出光明寺散歩は、身体はまだ寝ているようだったが代わりに都会では使っていなかった感覚が起こされていくような体験だった。

砺波平野に広がる独特な農村風景

戸出は「加賀百万石」を支えた豊かな穀倉地帯である砺波平野に含まれる。砺波平野は庄川、小矢部川という2つの川によって作られた扇状地で、この広大な地には家々が田んぼの中に点在している散居村(さんきょそん)や散村と呼ばれる集落形態が残っている。自分の家の周りに水田があるため管理や稲の運搬がしやすい効率的な形とされる。

貸してもらった長靴に履き替え玄関を出てすぐ、目に留まった高木にレンズを向ける。家の周りの木々は防風雪林として機能していると野原さんが教えてくれた。こうした木は屋敷林やカイニョと呼ばれる。風雪を防ぎ、強い日差しを避けられるほか、落ち葉は燃料、木は建材にもなった。クリやイチジクは実が食料になったりと樹種ごとに生活に密着した活用がされてきたという。近年は、ガス・電気の普及や建材の流通によって燃料や建材としての役目が減り、また維持管理の大変さから減少傾向にある。

昨夜、野原さんはこの平野をこんな風に表現していた。「ここの魅力はこの田園地帯。例えば私の住む京都は山に囲まれていて狭いんですよ。ここに連れてきた人は『こんなに広いんだ』ってびっくりしはる。周りに家がないでしょ?戸を開けると風がザーッと抜けていくんです。稲が風に揺れてざわざわして。ほかにないと思うんです」。確かに、何だか空間の広さが違う。視覚的、物理的なもの以上に、心理的な広さを感じる。遥か遠くから走ってきた風の音を聴ける。

フランス人作家で飛行機乗りでもあったサン=テグジュペリはアルゼンチンを夜間飛行している最中にある光景を見た。暗闇の平野の中に、ポツリポツリと家々の灯が「星かげのように」ちりばめられた光景で、彼はその一つひとつの灯に、そこに住む人々の暮らしを垣間見た。

あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。また、かしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。
サン=テグジュペリ 著 堀口大學 訳 「人間の土地」 新潮社 1955

カイニョに囲まれた家々が田んぼの中に点々とたたずむ風景からは、同じように一つひとつの点に人々の暮らしの息遣いを重ねることができそうだ。

大地が、万巻の書より多くを教える

未舗装の、まさに「裏参道」を進んでいく。ゴムの長靴はスニーカーよりもダイレクトに地面の感触が伝わる。踏みしめる土は表面がべちゃべちゃというより、もっと内側からじんわり水が染み出てきている感じがする。立山連峰の雪解け水だろうか。後で調べてみると、扇状地というのは一般的に水はけが良すぎて稲作には向かないが、砺波平野は水はけ以上の水量が庄川から豊富に供給される肥沃な大地だという。

実際に自分が得た体感を基に「あの時のあの感覚はそういうことなのかしら」と地形や地質の事まで学べるのだから、これほど豊かな経験もない。都会に対して地方のことを「何にもないのが魅力」的に形容する向きがあるが、こんなにも色々と教えてくれる土地をそう呼ぶのは忍びない気がする。

お寺に着くと、お堂の前には巨大な「A」が見える。雪が積もってもお参りができるよう置かれた「雪囲い」。雪国特有の景色に出会った。寺の彫刻は、木彫のまちとして知られる富山県南砺市井波の職人によるもの。社寺建築で柱から突き出た部分を木鼻と呼ぶらしく、下の写真の木鼻は夢を食べる霊獣・獏(ばく)のようだ。

田んぼの中に浮かんでいるように見える神社にもたどり着き、帰路は舗装路を歩く。かつては暴れ川だったという庄川から引かれた灌漑用水路が張り巡らされていることに気づく。立体交差の水路のジャンクション感がたまらない。朝の空気を吸い浄化された気持ちで帰宅。実際は30分程度だったが、体感ではもっとゆったりと時間が流れたようなひと時だった。

「もろや」の裏手には空き家になっている立派な古民家があり、そこには離れのような作業スペースもあった。リモートで働けて、都市部に行く必要がさほどなければ、ここで暮らしながら仕事をする生活はどんなに素晴らしいものかと考えてしまった。柔らかい陽光が注ぐ居間で朝食をいただき、「もろや」を出発した。

歴史がちりばめられたまち・戸出

朝食後、ウェルカムサポート隊で「戸出によっといで」の清都さん、原さんに戸出市街地を案内してもらう。集合場所は戸出コミュニティセンターの前。目の前には加賀藩御蔵跡と記された石碑がある。交換会にて清都さんが説明してくれたところによると、戸出は加賀藩の米の一大集積地で、砺波平野で最大の米蔵「戸出御蔵」があった。かつてここに集められた米が川を下り最終的に北前船に乗って、京都・大阪へ運ばれたのだという。

そしてその横にあるのが「戸出御旅屋(おたや)の門」だ。御旅屋とは、加賀藩の藩主が鷹狩りや領内視察の際に休憩したり宿泊した施設。藩内10か所ほどに設置されていたが、現存するのはここに建つ戸出御旅屋の正門のみとなる。加賀前田家3代当主・前田利常(1594~1658)によって建てられ、2013年に今の場所に移築、修復された。
 
御旅屋という言葉は市内に地名としても残っており、地元の人は普通に使っているが、筆者はこれまで聞いたことがなく、現地訪問後にも他地域で使われている例を見つけられなかった。いわば「加賀藩(とその支藩)」語なのだろうか。その土地では普通に流通している言葉一つからもエキゾチシズムを感じてワクワクしてくる。

歩き出してすぐ、屋根のてっぺんにトサカのような瓦がついていると教わる。雪割り瓦というらしい。足元の道路には地下水が出てくる融雪装置。ここにも「雪国ならでは」があった。

「四つ角」と呼ばれる交差路に出る。ぶつかったのは、こちらも昨夜から清都さんに聞いていた上使(じょうし)街道だ。江戸時代初期までは北陸の主要道路で、「さまのこ」と呼ばれる目が細かい千本格子が用いられている古い建物が今も残っているという。日本一美しいと称される戸出七夕まつりの際は、歴史を感じさせる町並みに祭りの幻想的な空気が一層映えるらしい。少し街を回っただけで、現代につながる歴史話がそこかしこから現れる。戸出野神社につながる大鳥居は、北前船の廻船問屋・能登屋三右衛門(のとやさんえもん、1806〜1868)らが寄進。三右衛門の子は、伏木港の近代化に尽力した藤井能三だ。当の神社では2017年の開町400年記念イベントの際、かつて戸出が鷹狩り場だったことになぞらえ鷹匠によるショーが行われた。

かつて御旅屋が建っていた場所には、往時の空気を吸っていた巨木が今も生き続けている。高さ約20m、幹周り約4m、推定樹齢約400年のコウヤマキ。戸出のまちを開いた川合家の2代目が、加賀藩の藩祖・前田利家を弔うために和歌山県・高野山を参拝した際に譲り受けた苗を植えたとされている。生い茂る枝の傘の中は隔絶された空間のような静けさ。民家の庭にあるため自由に出入りはできないが、「戸出によっといで」に事前に連絡をすれば見学可能とのことだ。

1時間弱の戸出まち歩きはこれにて終了。戸出にあふれる文化や歴史は派手だったり教科書に大きく書いてあったりするものではないが、観光地化していないからこその魅力に満ち満ちていた。

 

戸出地区ではローカルなものの価値を皆で考え、ローカルなものに触れることができました。次回記事では、また別の高岡の「財産」、工芸について専門家や職人にうかがった話を伝えます。

ライター:清水 泰斗

ライター。マンツーマンの日本語教師としても活動中。日本中の工芸やニッチな特産品の取材、アイヌ文化、サウナや銭湯、エスニックタウン、アンダーグラウンドカルチャー、マタギ文化などに食指。メディアもファストな時代ですが、ディティールを大切にする文章を書いていきたいです。

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