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すごい旅の話

2020-03-11

震災と原発事故を乗り越えて。福島県富岡町と「とみおかアンバサダー」で作った日本酒「萌 - KIZASHI - 」開発秘話

「元々富岡にいた人たちに戻ってきてもらうだけが復興ではないと思ってる。」

富岡町(とみおかまち)の方から聞いたこの言葉が衝撃で、今でも頭に残っている。富岡の人たちは、しっかりと過去を見つめた上で前を向いているのだ、と衝撃を受けた。「萌 - KIZASHI -」は、前を向いて挑み続ける富岡町を象徴する、希望の光であってほしい。

2011年3月11日。東日本大震災の当時、テレビ画面越しの凄惨な映像に、高校生の私は耐えきれず涙した。

なにか力になれればと思い、震災から1年後、石巻市へ2泊3日のボランティアに向かった。仮設住宅で暮らす人々の話し相手や、写真洗浄の手伝いなどを行ったものの、あくまでも“人手”としての手伝い。どこか物足りなさを感じていた。あれから8年。今思えば、なんとも言えない自分への虚無感が、今回の応募を後押ししたのかもしれない。

私の本業は、広告代理店のプランナー。仕事はとても楽しいが、いつかは場所に縛られずに働きたいと思うようになっていた。

そんなとき、たまたま「とみおかアンバサダー」として日本酒の企画立案をするというSAGOJOの募集をFacebookページで見かけた。学生時代から今でも地域活性に携わっていること、また土地の風土が感じられる日本酒が好きなことも相まって、「これだ!」と一念発起し応募した。

この応募は、人生のなかでも一番の英断だったと思う。

とみおかアンバサダーとは?

 

最近、○○アンバサダーという言葉をよく聞くようになったと感じる。私自身なんとなく意味は分かっていたものの、もう一度きちんと調べてみた。

 

基本的には英語で「大使」や「使節」「代表」といった意味で用いられる語。名詞。日本語では「親善大使」のような意味合いで「アンバサダー」の語が用いられる場合がある。(引用元:weblio辞書

ふむふむ、なるほど。つまりとみおかアンバサダーとは、端的に言えば「富岡町大使」ということらしい。改めて大役を仰せつかっていたのかと、身が引き締まる。

そもそもの意味に加えて、私が今回の活動を通じて意識したとみおかアンバサダーのミッションは以下の2つ。

  • 富岡町の魅力を「自分なりの切り口で」「ありのままに」発信すること
  • 福島イノベーション・コースト構想の一環として、農業再興とそこで生産された米でつくる新たな日本酒開発に係るコンセプトネーミング企画をすること

この2つのミッションを軸に約4か月間活動をつづけ、合計3回の現地視察に伺った。

とみおかアンバサダーとして活動するにあたり現地でお世話をしてくださったのが、富岡町での空き家・空き地バンク事業などを運営する一般社団法人とみおかプラスの皆さんだ。

アンバサダーは全員で15名、私だけが大阪からの参加だった。メンバーの皆さんの職種は多種多様で、フリーランスのイベンター、オンライン塾の名物講師、プロのカメラマン、福島県内の地域おこし協力隊、これから福島県にゲストハウスを開業する経営者、コンサルティング会社の会社員、舞台俳優、移動型銭湯の主宰者など……。

応募動機は人それぞれ。ひとりひとりが違う想いを持って、富岡町に集っている。だからこそ様々な視点や視座で富岡町を切り取り発信していけたのだと思う。

富岡町ってどんなまち?

とみおか、とみおか、とさんざん連呼してきたが、「いや、富岡町ってどこにあるんだ……?」と疑問に思っている人もいるかと思う。ここからは富岡町についてご説明しよう。

場所でいうと、この辺り。

富岡町があるのは、福島県双葉郡。東日本大震災では地震や津波の被害だけでなく、原発事故で甚大な被害を被った地域だ。

町の南には、東京電力福島第二原子力発電所があり、東京電力福島第一原発から20km圏内の警戒区域指定によって一般人は全域入ることができなくなり、約2年前にようやく避難指示が解除となったばかりだ。

震災前は1万5000人以上いた富岡町の人口も、約1,160人というのが現状だ。

今回、アンバサダーとしての活動をするなかで富岡町に暮らす人々の様々な思いに触れ、富岡町の可能性を肌で感じた。

もう一度富岡に人が集まるキッカケを

1回目の視察では、富岡町の伝統的なお祭り「えびす講市(えびすこういち)」にお邪魔した。えびす講市とは、富岡町で大正12年から始まった秋市。五穀豊穣と商売繁盛を祈念し、事代主神社の例大祭に合わせて、富岡中央商店街通りで開催されてきたものだ。

えびす講市は震災の影響で、約7年間中断されてきたが、帰還困難区域を除く避難指示が解除された翌年の2017年に有志の町民たちによって復活を遂げた。

 

震災以前は町の人々が集う大切な場でもあったえびす講市。

会場では地域で結成されたチームによるライブやひょっとこ踊りのステージが繰り広げられたり、お菓子屋やラーメン屋、鮎の塩焼きなどの出店が立ち並ぶ。

出店のなかでは、「浜鶏(はまど~り)ラーメン」が出していたワンタンスープに感動! あっさりしているが、深みのあるコクがとろりと舌を覆う。

 

浜鶏(はまど~り)ラーメンは、JR東日本おみやげグランプリにも選ばれた実力派の一品だ。代表取締役社長の藤田社長いわく、「家で食べるなら、サラダチキンと煮卵を乗せれば十分においしいよ」とのこと。わざわざメッセージを送ってくださった。こういうあたたかい人々が、富岡町を作っている。

無いなら作る。新たな名産「とみおかワイン」への挑戦


2回目の視察で訪れたのは「とみおかワイン葡萄栽培クラブ」。2016年の避難区域解除から間もなく、元々富岡町で建設業を営んでいた遠藤さんが始めたプロジェクトだ。

これからの富岡町を考えたとき、復興の文脈を最大限に生かせる観光産業が創出できるのではと思いつき、そこで「新たに人を呼べるコンテンツ」が必要だと考えた遠藤さん。

海も近く景色がいいこと、美味しい魚介類が獲れること。これらを最大限に生かせる産品はワインしかないと思い、ワインづくりに取り組んでいる。

私達が訪れた際は、来年の収穫に向けて圃場は準備中だった。


 

町内の圃場で葡萄栽培を開始してから3年目となる2019年、初の葡萄収穫が行われたそう。今年は、ワインづくりを始めて初となる、赤ワイン品種のシラーと白ワイン品種のセイベルのブドウを使った赤白二種類のワインが完成した。

富岡の美味しい米をもう一度。挑み続ける米農家

今回とみおかアンバサダーのプロジェクトを通して富岡町の方たちと共同開発した日本酒、「萌 - KIZASHI - 」の原料となる酒米を作農している渡辺伸さんのもとを訪れた。

この酒米の生産技術の研究開発は、東京農工大学とタッグを組み進めている。五代続く米農家であった渡辺さんだが、震災後は家と田んぼは警戒区域となり、稲作を継続することは不可能となった。しかし、避難指示が解除されてからは家族を福島県内に残し、一人米作りに奮闘している。

渡辺さんは笑顔で私たちを迎えてくれ、実際のお米の収穫方法や作業について丁寧に教えてくださった。「いつも一人だから、みんながいると作業が早いねぇ~。助かるよ~」と、穏やかに話しかけてくださる渡辺さんだが、米作りに想いを懸けて挑む姿には、重みのある覚悟と男気も感じられた。

この日は渡辺さん宅で、地元のみなさんを交えての晩ごはん会。昨年初めて収穫された、渡辺さんの作ったお米「天のつぶ」や、地元の魚貝類などをふるまって頂いた。実は、この時町の人達から聞いた話が、今回の日本酒コンセプトのヒントになった。

ひょんな質問から見つかった日本酒のコンセプトの種

晩ごはん会の中で、ふと「富岡町の好きなところは?」と町のみなさんに聞いてみた。すると、その中で出てきたのが、今回の日本酒【萌 - KIZASHI - 】のコンセプトのもととなった「夜ノ森(よのもり)のツツジ」「富岡漁港の朝日」というキーワードだ。

富岡町北部にある夜ノ森駅。この付近に咲くツツジは富岡に住む人々にとって、桜と並ぶ春のシンボルだったのだそう。毎春、ツツジが咲き誇る景色は地元の方だけでなく旅行者からも人気で、夜ノ森駅は「東北の駅100選」にも選ばれたことがあるほどだ。

しかし、皆に愛されていた夜ノ森駅のツツジは、除染作業とともに刈り取られてしまった。「もう一度あのツツジが咲き誇る景色を見たい」と町の人達が口々に語った。

そしてもうひとつ、富岡漁港の朝日はとてもきれいで、よく見に行っていたことも教えてくれた。 

百聞は一見に如かずということで、実際に翌日、有志のメンバーで富岡漁港の朝日を見に行った。

まだ外が薄暗い中、誰もいない、静まり返った富岡駅付近を歩く。海につくと、漁業を営む人々が出港の準備をしていた。

漁船のエンジン音が遠くで聞こえる。

季節は12月。海沿いということもあって、手がかじかむほどの寒さの中でシャッターを切り続けた。

静寂に包まれる富岡の海は、悲劇があったとは到底思えない穏やかさだった。

原発が事故により大惨事を起こし、“人々”の生活や心に大きな影を落としたこと、それは変えようのない歴史的な事実だ。 しかしその先にある現在、この町で、生まれ、育ち、暮らしていた“人々”は、その出来事を受け止め、乗り越えようと、一歩ずつ歩みだしている。

富岡の人たちに愛された景色を見ながら、自然と涙が出た。

赤字覚悟でもやってみる。人気酒造の日本酒造りに込められた願い

もうひとつ、日本酒のコンセプトづくりの大きなヒントになったのが、「人気酒造」の遊佐社長による日本酒にまつわる講話だった。

二本松市にある人気酒造は、ウルトラマンがパッケージデザインの「純米総攻撃」で一躍有名となった酒蔵だ。日本酒の基礎的な知識から日本酒造りの裏話まで、密度の濃いお話を伺うことができた。

どの酒蔵も今回の日本酒造りプロジェクトは生産量と手間暇のバランスを含めるとあまりにも採算が合わないという理由で難色を示していたところ、富岡町からの依頼を聞き入れてくれた唯一の酒蔵が人気酒造だった。

遊佐社長のお話を聞いていると、粋な考え方や熱い想いが、発される言葉の端々からひしひしと伝わってきた。震災以後、その一心で継続して活動されている社長の「富岡を、福島を、元気にしたい」という言葉には、悩みや苦しみを抱えながらも歩み続けたからこその重みがある。

お話の中で、福島県産のお酒から放射性物質が出たことは一度もなく、原料の米についても、出荷前にすべての米の放射性セシウム濃度を検査する「全量全袋検査」で、2015年以降一度も基準値を超えるものが見つかっていないにも関わらず、「福島県のお酒」というだけで避けられてしまう傾向にあることを知る。これが、福島という土地が背負っているものだ。私たちにできることは、今回開発する日本酒の販売のお手伝い。それを通じて、私たちが立ち向かわなければならい現状がどういうものなのかを、改めて感じた。

社長の講話の後は、グループで日本酒づくりのコンセプトについて話し合う。

  • この日本酒を通じてどんな想いを伝えたいのか
  • どこで販売するのがいいのか
  • どんな仕様の日本酒が良いのか
  • 誰に向けた商品とするのか
  • どんな名前がぴったりなのか
  • どんなラベルデザインが良いのか

当然限られた時間内にはまとまらず、2回の現地視察を終えた。
その日以降、私のチームは毎日のようにメッセンジャーで企画会議を繰り広げた。

昼夜問わず議論を重ねて生まれたアンバサダーたちの日本酒企画案

アンバサダーは4チームに分かれて日本酒の企画を考え、最終的に富岡町のみなさんにどのチームの案を採用するか判断してもらった。

私のチームには、雑誌編集者や、元々富岡町や東北を訪れていた方もいたため議論が白熱。SNS上での話し合いは、連日深夜まで及んだ。日本酒のネーミング、企画書作成、コンセプトの説明文や特徴のまとめ、日本酒の仕様など、それぞれが役割を担う。

働き方も生き方も違う4人の大人が本気で考えた案。紆余曲折がありながらも、皆が本気で「いいものをつくりたい」一心で取り組んでいた。

私たちのチームは「夜ノ森駅のツツジ」をコンセプトとした、【萌の躑躅(ツツジ)】という商品名を提案した。夜ノ森駅のツツジが再び咲くことは、富岡に住まう人だけでなく、富岡を心の故郷とする人にとっても、同じ「願い」であること。富岡の新たな未来への希望も込めて、「萌の躑躅」と名付けた。ラベルにナンバリングを施し、えびす講市で抽選会を実施するなど、購入者が富岡町に来訪するような仕掛けづくりも盛り込んだ。

結果発表は1月の最終視察の際に現地で行われた。

私たちのチームの企画書がコンセプトのメイン案として採用された。やったー!

他チームの案も、どれも考え抜かれたものだった。津波によりなくなってしまった「ろうそく岩」をモチーフとしたり、女性でも飲みやすいようにスパークリング仕様にしたり、お土産用として小さめの300mlサイズにしたりと、それぞれのチーム案のエッセンスがこの【萌 - KIZASHI - 】には織り込まれている。大人の本気が詰まった日本酒だ。

どんどんオモシロイ町になる。そんな予感がするから、これからも関わりたい

今の私にとっての富岡町は、「また来たいと思えるまち」だ。

これは復興支援をしたいから、というわけではなく、純粋に富岡町の人が好きで、今後ますます面白いことに取り組んでいく予感がするからだ。自分もその仲間になっていたい。

富岡町は被災地ではあるが、彼らはそれを受け入れた上で、互いに支え合いながら新たな一歩を踏み出している。例えば、とみおかプラスのスタッフさんのお子さんの遊び相手を上司が引き受けたり、仕事を代わりにやっていてあげたり。信頼関係がどっしりと根を張っていると感じた。

被災地へは6年ぶり、福島へは初めて訪れた私。全3回の現地視察を終えてみると、ひとつ大きな変化があった。原発関連のニュースの先に「人」が見えるようになったのだ。自分の目で見て、聞いて、触れて、五感で感じたからこそだろう。

このコラムが、福島のことや原発のこと、そしてそこに住む人達について、もう1度考えるきっかけになれば嬉しい。悲しみだけに覆われている町じゃない。まっすぐに前を向いて、頑張る人たちがいる。

これから、富岡町はどんなまちになっていくのか。今は誰も分からない。でも、ひとつ確信していることがある。それは、これから富岡町にはじめて足を運ぶ誰かにとって、いつか富岡が「ふるさと」になる日が必ず来ること。そんな力を、きっと富岡町は、富岡の「ひと」は持っている。

2020年3月14日、9年ぶりに常磐線が遂に再開通する。

富岡町は、富岡の「ひと」は、今日も明日も歩みを止めない。
夜ノ森のツツジは、今か今かと花咲く日を待っている。

ライター:みゆう@お結びや

ヒトの想いを結ぶ「お結びや」として、イベンター・ライターとして活動中。学生時代から企画・実施したイベントは100以上。旅を通じ、ヒトやコトから染み出す地域のうま味を味わうことが好き。本業は広告代理店のプランナー。

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