すごい人生
2016-10-17
「今、旅に出ないと一生後悔する」20代最後、“世界一周×仕事”への挑戦|灯台もと暮らし編集長・伊佐知美

29歳。世界を旅しようと決めた私が、最初に向かった国はマレーシアだった。
会社員だった頃、毎年少しずつ、少しずつ一人旅を重ねたアジア。行ったことがない国の大都市の中で、もっとも惹かれたのがクアラルンプールだった。
と言えば聞こえはいいけれど、結局のところ私は恐かったのだ。
行ったことがない長期の旅。ひとりで。しかも、日本で請け負った仕事をしながら、旅先で取材もしながら。
言葉は? お金は? 泊まるところは? 仕事はどこでするの? っていうか、本当にできるの? そんなこと。私、SIMカードとかも、ぶっちゃけよく分かんないし。
Wi-Fiを拾って旅をすると決めた。レンタルWi-Fiを借りるには、範囲が広すぎたし、コストもかかりすぎた。
クアラルンプールなら、きっと発達している。突如、ひとりで異国の地に降り立ったとしても、野垂れ死なない。「すっ」と旅に入っていける。
ドキドキしながら乗った羽田発の飛行機。さよなら日本、私が生まれた国。大好きなひと、家族、仕事、諸々。……そんな感傷的なかんじで旅立つつもりだったのに、出国ゲートをくぐった瞬間、私の頭にはこれからの「旅×仕事」の毎日へのワクワクだけが残った。
旅をしながら書き仕事をする。それは、私が小さい頃から描いた「夢の形」そのものだった。
***
世界各地のAirbnbの宿で、ホテルのロビーで、カフェで、コワーキングスペースで。時には海と青空を見ながら、観光地の階段や、世界遺産の街の小さな日陰、国と国をつなぐフェリーの上で(少し酔いながらも)、パソコンに向かった。
店の人とは、Wi-Fiのパスワードを聞くために大抵会話をした。
※海外ではパスワードは聞かないと分からないことが多い。余談だが、ミャンマーでは1時間ごとにパスワードを変える飲食店に出会った。なんでそんな頻繁にパスワードを変える必要があるのだろう……。未だに分からない。
街中の普通の飲食店で、パソコンを開きながらパスワードを聞き、原稿を書いたり、写真編集をしたり。景色に脇目も振らず作業に没頭する異国からの来訪者・一人旅・しかも女性は、きっと謎に映るのだろう。みんな、興味を持って話しかけてくれた。
「何をしてるの?」
「一人旅?」
「どこから来たの?」
必ず誰かと、話をしていた。だから、ちっとも寂しくなんてなかった。
インドで、イギリスで、クロアチアで、フィンランドで。
そういえばオーストリアでは、一方的にキスをしそうになったこともある(語弊があるが)。
***
「君が書いているその文字は、いったい何?」
私が店に入ってから知らんぷりを決め込んでいた、きっと普段は客との距離を適度にとると決めている男性の店員。気がつくと15センチの距離まで詰め寄ってきていた。
視線の先には、11インチのMacBook Airの画面。とそこに打ち込まれている、ひらがな、カタカナ、漢字、数字そのほか諸々が混ざる、私の原稿。
目の前にはハルシュタットの壮大な山と湖の景色。眼下には、世界でもっとも美しいといわれる湖畔が広がっていた。
「呪文か?」
続けて真顔で、そう言った。
答える前に、なぜか「その気になればキスができそうな距離だな」とくだらないことを思った。キスの代わりに、「日本語。初めて見ますか?」と答えてみる。
「Amazing……日本語で“驚いた”って何て言う? 君は何者? 何してる?」
彼が運んできてくれたビールを一口飲む。そして旅の最初に訪れた国・マレーシアで聴いてから気に入っている、「love yourself」のYoutubeの音を止めてイヤホンを外す。
そこから、しばしのドイツ語(オーストリアの公用語)と日本語の教え合いが始まった。すぐに他の店員も集まってくる。
ハルシュタットの街で一番美味しいお店はあそこ。土産なら「Drechslermeister」という工房がセンスがいい。僕らはこの土地で生まれた。家はハルシュタットの街から20分ほど車で行った先。毎日、この山の上のカフェ・レストランに通勤するため、ロープウェーに乗っている。
そんなことを、話してくれた記憶。
「この景色が日常なのね。うらやましい」と私は言った。
「君のほうが。僕らだって、できるものなら」と彼らは遠くを見て言う。
「できるものなら、あの山の向こうへ行きたい」
***
8ヶ月という長い期間、ライターという仕事をしながら、世界をめぐる。
そうね、私もこれ、ずっと夢だったの。
たった10数年前、ひとりでカナダ・バンクーバーを訪れた時は、まだインスタントカメラが主流だった。カチカチ、と巻いて撮る、景色と友だち。
2年半前までただの出版社のアシスタントだった。その前は金融業界の営業職。時代も変わるし、私も変わる。「書くのが好き。旅をしながら仕事がしたい」その一心で、27歳の時にライターを目指した。
今はどの国を旅しても、どこで仕事をしても、Wi-Fiがあれば問題ない。同じ音楽が聞ける。同じ、日本語の記事が書ける。
なんて幸せなんだろう。決して当たり前じゃない。
iPhoneを失くしたり、国際病院に駆け込んだり、フェリーに乗り遅れたり、一人で夜道で転んだり。もちろん上手くいかないこともたくさんあった。そして今思えば、旅に出ると決めたことで、失ったものも、きっとある。
でも私は、どうしても、20代最後にこの働き方に挑戦してみたかったのだ。
気の向くままに、どこへでも。世界地図を広げて、次の行き先を決める。好きな場所に、好きなだけ。そして仕事をしていく。取材をして、記事を書いて。
次は、恋もできたらいいな、と思う。
旅も仕事も夢も、恋も。欲張りだけど、欲張ってはいけないなんて、どこの誰が決めただろう。
一歩踏み出せば、きっと違う世界が見える。さて次の旅先は、人生初のオセアニアだ。
(文、写真:伊佐 知美)